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武蔵野航海記

武蔵野航海記

目付

かなり前のことですが、石川県の金沢に行ってきました。

石川県というのはなじみが無くて覚えにくい県名です。

鹿児島市が主邑(県庁所在地)だから鹿児島県、高知市が主邑だから高知県というのと同じように金沢市が主邑だから金沢県にすればよいのに、と思いました。

あとで分ったのですが、これは明治政府の方針だったのですね。

明治維新のときに官軍だった県は主邑と県名が一致し、幕府方はわざわざ辺鄙な地名を県名にしたのです。

兼六園など主要な観光地は大体見たのですが、あまり印象に残っていません。

その中で一つだけ強い印象を受けたものがありました。

その博物館の正確な名前は覚えていませんが、大名の衣装や身の回りの道具を展示しているものでした。

大名というからには、前田家のものを展示しているのだろうと思って入ったのですが、違っていました。

本多という前田家の家老の衣装や道具を展示していたのです。

展示品は、火事装束などのような物がならべてあるだけで、面白くありませんでした。

そして私は騙されたような気持ちで不機嫌になりました。

終りのほうに、前田家の家老である本多家を詳しく説明しているパネルがあったのですが、これが面白かったのです。

俗に「加賀百万石」と言いますが、分家の大名を合わせると全部で百二十万石になる日本一の大名です。

そして本多家は5万石の石高で、前田家の家老のなかでも飛びぬけて大きな石高なのです。

他の家老には前田○○という藩主の一族が多くいましたが、彼らはせいぜい1万石です。

そして代々の本多家の当主は主君である前田家のお姫様を妻に迎えているのです。

加賀前田藩の筆頭家老本多家の初代は政重です。

本多正重は三河出身で一族は徳川家の譜代の家来でした。

本多一族は三河ではけっこう名家なのです。

名家といっても大したことはありませんが。

そもそも主君である徳川家そのものが氏素性がはっきりしていません。

三河の山奥の松平郷に、松平家(後に徳川に苗字を変えます)は蕃居していました。

室町時代に盲目の僧が松平郷にやってきて、そこの豪族に入り婿になり出来た子供が徳川家康の先祖なのです。

どうにも先祖がうさんくさいのです。

家康は自分の出自を飾るために、先祖の旅の僧は得川氏だったと言い出しました。

得川はれっきとした源氏である新田氏の一族で、新田義貞につながります。

征夷大将軍は源氏しかなれない慣習がありましたから、こういう系図を作り上げたのです。

そうしてどこからもこの系図にいちゃもんが付かないように、天皇から徳川という苗字を頂戴し、源氏の氏の長者に任命されるように画策したのです。

江戸幕府は将軍の先祖が源氏だという家系伝説がありますから、素性のはっきりした源氏をおおぜい家来に取り立てました。

吉良上野介は旗本でしたが、吉良家は足利氏の一族で足利尊氏につながる源氏の名家です。

また新田氏の直系の子孫を探し出してきて旗本にしたりもしました。

ちなみにこの幕府の旗本だった新田家は明治になって、南朝に忠誠を尽くした新田義貞の子孫だということで男爵になりました。

このように徳川氏は自分の出自に劣等感を持っていました。

三河の本多一族には多くの有能な家康の家来がいました。

徳川家康が信頼した侍大将は三人いましたが、そのうちの一人が本多平八郎忠勝で、他の二人は榊原康正と井伊直政です。

家康が豊臣秀吉によって、三河の本拠地から北条氏の領地だった関東全域256万石に移住させられましたが、平八郎忠勝はこの時千葉に10万石の領地をもらっています。

本多正信は家康の参謀でCIA長官のような役目を果たしていました。

豊臣秀吉が死んで、家康が天下盗りをした時の諜報活動の責任者で、大阪方に難くせを付け秀吉恩顧の大名を切り崩す作戦を遂行した人物です。

彼も家康に非常に信頼され、家康の寝室にいつでも入っていける特権があったということです。

また本多作左衛門重次という頑固親父がいて、主に民政の分野で活躍しましたが家康に愛された名物男でした。

このように本多一族は徳川家の譜代の家来でも有力で、江戸時代には13家が大名になり、旗本は45家もあったのです。

そして加賀前田家の筆頭家老である本多政重は、家康の参謀だった正信の息子だったのです。

加賀前田家の筆頭家老になった本多政重は、徳川家康の諜報活動の責任者だった本多正信の息子でした。

彼は1580年生まれですから、天下分け目の関が原の合戦の時は20歳です。

17歳の時に、後に二代将軍となる徳川秀忠の乳母の息子を殺して徳川家から離れました。

そして宇喜多秀家に2万石で仕えました。

宇喜多秀家はご存知のように豊臣家の五大老の一人で57万石の大名です。

彼は関が原の合戦では豊臣方(西軍)に属して、徳川家康の東軍と激しく戦い負けた大名です。

負けて領地は取り上げられ八丈島に流されて死にました。

本多政重は宇喜多秀家の侍大将でしたから、関が原の合戦では主君のために必死で戦いました。

実父が仕えている徳川家康方と戦ったわけです。

宇喜多家断絶後、豊臣恩顧の大名で関が原では家康に味方をして50万石の大封を得た福島正則に仕えました。


その後、加賀前田の家老になって3万石をもらいました。

その後、直江兼続の婿養子になって上杉家に仕えました。

直江兼続は上杉家で6万石をもらっている家老で、上杉家を実質的に支配していた実力者です。

上杉家はあの有名な上杉謙信を創設者とする大名でしたが、豊臣時代は120万石で5大老の一人でした。

関が原の合戦で徳川家に逆らったために領土を30万石に削られて息絶え絶えの状態になっていたところに本多政重がやってきたのです。

その後本多政重は、上杉家を離れてまた加賀前田家に戻りました。

当時の前田家は関が原の合戦では徳川家に味方して領土を増やしましたが、一番大きな外様大名なので徳川家に警戒されていました。

徳川が前田家にいちゃもんを付け、できれば取り潰そうと難題を吹っかけてきた時に本多政重は江戸の将軍家と交渉し、前田家の領土を守りました。

その功績で彼は2万石の加増を受け、5万石をもらうことになったのです。

本多政重が仕えた大名はどれも大きな大名家で、徳川家の地位を脅かす実力をもったライバルだったのです。

本多政重の行動を見ていると様々なことが浮かび上がってきます。

彼は17歳で徳川秀忠の乳母の息子を殺しました。

当時は関が原の合戦の直前で、日本中の大名が大阪方が勝つか、徳川が勝つかを必死になって予測していた頃でした。

秀忠が二代将軍になる可能性は大きかったのです。

大名家の跡取りの乳母というのは非常な力を持っています。

秀忠の息子で三代将軍になった家光の乳母があの春日の局です。

彼女の権力は大変なもので彼女の意向に逆らえる大名はいませんでした。

これから考えても秀忠の乳母の息子を殺したことが大変なことだということが分ります。

17歳の少年ではこの辺の事情は分らなくて当然かもしれませんが、周囲の乳母に対する扱いを見て彼女が大変な権力者だとは感じたはずです。

その息子を殺したのですから、彼は直情径行の男だったのでしょう。

次に、徳川家康や秀忠が政重を犯罪者とは考えなかったということが分ります。

彼らは戦国時代を生き抜いた男たちでしたから、荒くれ男たちの使い方を心得ていたのでしょう。

宇喜多秀家は政重を2万石という小さな大名クラスの給与で召抱えましたが、いくら政重が勇猛で有能な武士だとしても実績の無いティーンエイジャーにこんな待遇をするはずがありません。

徳川家の有力者の息子という点を買ってのことだとしか考えられません。

当時の大名は皆、敵味方の両方によしみを通じどっちが勝っても家が存続できるように配慮していました。

宇喜多秀家は、政重を召抱えることによって徳川家とのパイプを作ったのです。

また家康や政重の父親の正信は、政重を通じて宇喜多家をコントロールしようとしたのでしょう。

こう考えると、政重がその後に福島正則、上杉家、前田家の重臣になった理由がはっきりします。

彼らは徳川の譜代でなく、かつては同輩だった大外様大名で潜在的なライバルです。

ですから徳川も外様大名側も本多政重をそれぞれの立場から利用したのです。

宇喜多秀家は関が原の合戦では大阪方の有力大名として徳川方と大いに戦いましたが、その侍大将の政重も奮戦しました。

肉親の関係よりも主従の関係を重視して真面目に職務を果たす態度は、雇い主の大名の信頼を得たでしょう

金沢で本多政重という特異な家老を発見してから長い間、「いったい彼は何者なのだろう」と折にふれて考えてきました。

彼と少し似た立場の者として「附家老」というのがあります。

徳川御三家の殿様を教育し政治を補佐させるために将軍が指定した家老です。

尾張徳川家は62万石ですが、家康は二人の附家老を指名しました。

竹腰正信(3万8千石)と成瀬正成(3万5千石)です。

紀州徳川家には、安藤直次(3万8千石)と水野重仲(3万5千石)の二人を附家老に指名し、水戸徳川は中山信吉(2万5千石)です。

普通の家老は大名の家来ですから、徳川将軍から見れば家来である大名のの家来であり将軍に会う事が出来ません。

ところが御三家の附家老は将軍に会う事が出来たのです。

江戸時代の大名は「一国一城令」によって、城を一つしか持てなかったのですが、これらの附家老は自分の城を持っていました。

お城という点では附家老は大名の扱いです。

彼らは大名の家来というのと将軍の代理人というのと二通りの立場があったのです。

明治になってこの附家老の扱いが問題になり、結局大名だということになりました。

版籍奉還されるまでの短い間でしたが、明治時代にも大名はあったのです。

加賀前田家の筆頭家老である本多家は、石高の大きさや将軍の意向(暗黙の)という点で御三家の附家老と似ているところがあります。

日本の武家社会には「目付」というものがありました。

そのものずばりの分りやすい表現ですね。

徳川幕府の重要な役職に「大目付」というのがあり、大名や朝廷を監視するのが仕事で旗本の中から選ばれました。

また旗本を監視するするのが役目の「目付」というのもありました。

各大名も家来の武士を監視する目付を任命していたのです。

重要な役職の者には目付をつけなければならないという発想は江戸時代の武士に深く染み付いていました。

幕末の勤皇攘夷の志士たちも重要な使者を遣わすときは、仲間を伴っていました。

この使者は幕府や大名と言う公的な機関の役職ではなく、私的な政治結社の使いということだけなのですが、目付けを付けたのです。

また全く同じ仕事を複数の人間に担当させるという習慣がありましたが、これなどお互いが相手に対する目付だという発想です。

例えば、江戸には東町奉行と西町奉行がいました。

これは別にそれぞれの担当地域が分かれていたという意味ではなく、それぞれの奉行のオフィスの場所を指しているだけです。

そして彼らは月ごとに交代で江戸全体の治安を維持する仕事をしていました。

これは大阪の町奉行も同じです。

この同じ仕事を複数の人間が担当するという習慣は今でもあります。

アメリカ人だったら一人で東京に出張してくるような内容の仕事でも、日本人は複数でニューヨークにやってきます。

以前私が一人で東京に出張に来て処理した案件で、日本の会社はアメリカに5人を派遣してきました。

そのうち二人は専門分野のエキスパートでしたが、三人はただの部長でした。

この三人の部長はお互いの目付だったというのが私の理解です。

幕末に老中など有力な大名がヨーロッパに使節として派遣されることがたびたびありましたが、これはヨーロッパ人には素晴らしい見世物でした。

独特の民族衣装を着、長い剣を二本も持った姿は驚異でしたが、それと同じく驚いたのは使節である大名にピッタリとくっ付いた目付の存在でした。

目付けのような役割の者はヨーロッパにはありませんから、彼らは目付けをスパイと理解しました。

日本人は自分を監視するスパイを公然と伴っているということで気を失うほど驚いたのです。

御三家の附家老や加賀前田家の筆頭家老である本多家は徳川将軍の目付だとも考えられます。

いつの時代でもどこでも支配者は家来を監視しようとします。

支那には御史台という役人を監視する役所があり、古代の日本では支那の律令制度を輸入して弾正台という役所を作りました。

いかし、これらは日本の武士社会の目付とは違うようです。

律令制度は、文字通り律令(法律)が完備していましたから、役人の監視も法律を基準に行います。

一方、江戸時代の日本は整備された法典がなく、鎌倉時代に出来た貞永式目をそのまま使うなど慣習を重んじる社会でした。

江戸幕府が作った法律は「武家諸法度」や「禁中並びに公家諸法度」など非常に荒っぽいものだけだったのです。

目付は別に法律の専門家というわけではなく、普通の役人が管理職として勤めるだけでした。

また、目付はスパイとはまるで違います。

スパイはその身分を隠して秘密情報を盗み出すのが仕事で、スパイであることが露見したら殺される運命です。

このように、加賀前田家の筆頭家老、御三家の附家老、目付などという役職がいかなるものかよく分らなくなってしまったのです。

そこで私は、歴史上似たものがないか検討を始めました。

日本の目付や附家老のことを考えている時、突然ジョセフ・フーシェのことが頭に浮かびました。

彼のあだ名は「カメレオン」です。

自分の政治的主張がなくその時々に支配的な意見に同調するので、世論が変わるにしたがって自分の意見も変わっていきます。

彼の政敵は、「フーシェは非常に自分の属する政党に忠実な男だ。彼の所属する政党は常に変わらない。それは多数党だ」と彼をからかいました。

彼はフランス革命からナポレオン時代、その後の王政復古時代という激動する時代を、まさにカメレオンのように自分の意見を時代に合わせて生き残りました。

彼は保身のために自分の意見を都度変えていきましたが、別に贅沢をしようとは思いませんでした。

長い間政界の大物でしたからフランスで二番目の金持ちになりましたが、生活は非常に質素で女に金を使うこともありませんでした。

彼はかき集めた金で自分自身のスパイ網を作り上げ、その秘密情報によって自分の地位を維持し、財産を増やしていったのです。

時の皇帝ナポレオンやブルボンの王は彼のスパイ網を利用しようとして、警察庁の長官に任命したほどです。

彼のスパイ網は非常に良くできていて、007のようなケチなスパイだけではありませんでした。

ロシア皇帝の侍従長やナポレオンの妻ジョセフィーヌもフーシェのスパイだったというのです。

自分の妻がスパイだったナポレオンは、まさにフーシェに「きんたまを握られて」いたわけで、どうにも彼に抵抗できませんでした。

ジョセフィーヌからの情報は非常に価値の高いものでしたが、フーシェが彼女に見返りに与えたものは彼女の身の安全でした。

彼女は子供を産まなかったために、皇帝となったナポレオンは跡継ぎほしさのあまり彼女と離婚しようとしました。

ナポレオンがジョセフィーヌと離婚しようとする策動を次々と邪魔したのがフーシェだったのです。

離婚のためにはローマ法王の承諾が必要ですが、フーシェはローマ法王庁に強烈に反対運動をしたりしたのです。

フーシェは非常に完備した近代的なスパイ・警察網を作り上げた警察の元祖です。

明治維新になってフランスの優秀な警察を真似して日本の警察を作り上げたのが川路利良です。

フーシェは日本の警察の源流でもあったのです。

ジョセフ・フーシェは非常に興味深い人物で、私は彼の伝記を読むのが大好きです。

非常に有名な人物なので伝記もたくさんあるのですが、日本ではシュテファン・ツヴァイクが書いた「ジョセフ・フーシェ」が出版されています。

是非読んで下さい。非常に面白いです。

彼は1759年にフランスの港町に生まれましたから、1789年フランス革命勃発の時は30歳でナポレオンより10歳年上です。

船乗りの息子でしたが体が弱く頭は抜群に良かったので、父親は彼をカトリックの神父にしようとしました。

カトリック神父養成の学校を卒業し、その学校の物理の先生になりました。

神父になる誓いはたてなかったのですが、神父と同じ生活を永年続けていました。

彼がカトリックの神父同然の生活を送り、物理学を愛していたことは非常に重要です。

カトリックの神父は信者を管理している経験から非常な人間通です。

フーシェもその経験から「人間はみな臆病だ」という結論に達し、それをどう操るかを学びました。

また物理を学ぶ事によって「慣性の法則」を会得しました。

時計の振り子は下に向っていきますが、真下で止まらずに反対の方向に昇っていきます。

つまりいったん動き出したものは、ちょうど良いところで止まらずにもっと先に進んでしまうということです。

そして行き過ぎることにより、反動が生じ逆の方向に動き出すということです。

これは自然法則ですが、フーシェは人間の政治的行動も同じだと考えました。

一つの思想・運動はちょうど良いところで止まらずにやりすぎ、その反動が起きると考えたのです。

ちょうど変転極まりなく、予想の難しい株価を数学を使って予測し儲けようと考えるのと同じです。

このようにして、フーシェはフランス革命が起きるまで修道院の中で、将来政治家として大活躍する下地を作り上げました。

フランス革命が起きると、彼は生まれ故郷の港町ナントで立候補し国会議員になりました。

田舎町ナントの選挙民は穏健でしたから、フーシェも穏健派としてパリに出ます。

ところがパリでは過激派であるジャコバン派の勢力がどんどん大きくなっていったので、フーシェも過激派になりました。

そのままではフーシェの嫌いな政党である「少数政党」に属することになってしまうからでした。

このようにフーシェは、その時々の大勢力に寝返り続けます。

急進派から再び穏健派に戻り、次にはナポレオン党になります。

そしてナポレオンの先が長くないと知ると、ブルボンの王党派に接近しました。

フーシェが先を見越して、反対派に接近し始めるとその時々の支配者は彼を殺そうとしました。

ですからフーシェの寝返りも命がけだったのです。

ジャコバン派のボスだったロベスピエールはフーシェを死刑にしようとしましたが、フーシェも陰謀で対抗し逆にロベスピエールを死刑にして自分の命を救いました。

ナポレオンににらまれると反対派を結集させて、彼を蹴落としました。

フーシェは力学を用いて激動する時代を生き抜いていったのです。

フランス革命が始まって三年たった1792年にフーシェは国会議員になります。

その時の議会の多数派はジロンド党という穏健派でしたから、フーシェはためらいも無くジロンド党に所属しました。

このときには王政は廃止されていましたが、前国王のルイ16世は王位はただの市民としてまだ生きていました。

1793年に議会はこのルイ16世をどうするか決めることにしたのです。

このときに急進派であるジャコバン派が大活躍して、パリの世論をルイ16世死刑に持って行きました。

このときフーシェは政治の流れが変わりつつあることを察知し、従来のジロンド派からジャコバン派に寝返り、国王の死刑に賛成しました。

その日から、彼はジャコバン派のもっとも過激な闘士になりました。

そのうちにジャコバン派の中が分裂してきて、どっちのグループが勝つか分らない状態になりました。

こういう状態では自分の立場を明らかにせず、勝負が付いてから勝者のほうにつくのがフーシェのやり方です。

しかし彼は国会議員ですから、どうしても議会で演説しなければなりません。

そこで彼はパリから逃げ出すことにしたのです。

革命が進行しているフランスでは、首都のパリの世論がもっとも急進的で、地方は昔ながらの保守的な考え方が支配的でした。

そこでフランスの議会は国会議員の何人かを地方に派遣して、その地方の世論を革命的に変えるようにしたのです。

フーシェはこの制度に目を付け、自分が地方に派遣されるように運動しました。

彼はナント地方の総督に任命され、そこで過激な行動をとり金持ちから財産を没収し若者を徴兵してパリの議会に送りました。

当時、ヨーロッパ中の戦争していたフランスは、お金と兵士を大いに必要としていましたから、フーシェは筋金の入った革命の闘士として喝采を浴びました。

このときにフランス第二の都市リヨンが過激な政策に反対して反乱を起こしました。

そこで議会はもっとも優秀な革命の闘士としてフーシェを役者上がりのコロー・デルボアとともにリヨンの総督として派遣しました。

彼はリヨンでその過激振りを大いに発揮し、革命に反対した者を2000人も死刑にして、反乱を鎮圧しました。

いまやフーシェは革命派の大物になったのです。

フーシェは革命政府から地方の総督に任命され、保守的な考え方を変える役割を持たされました。

普通の状態では地方政府の長官というのは、一定のルールに基づいて実務を行うものです。

それは昔の封建時代の大名も現在の地方自治体も同じです。

ところがフーシェの時のフランスは、中央と地方ではその思想に隔たりがありました。

そこで過激な思想を持っていたパリの中央政府は、地方の世論も自分たちに合わせようとして、フーシェたち国会議員を地方の総督にしたのです。

中央と地方を思想的に一体化するための地方総督なのです。

ですから、派遣された総督の権限は強大で単なる実務を行うのに必要な範囲を遥かに超えていました。

私はこの革命期のフランスの地方総督は、日本の附家老や目付に似ていると思いました。

ルールに基づいて役人が仕事をしているかを監視するのではなく、思想・発想などメンタルなことを監視するからです。

附家老の仕事は、大名が将軍家に対する忠誠心を持っているか、独立を考えているのではないかというメンタルなことを監視するのが主な役割でした。

こういう仕事はスパイという非公式で表の世界では存在しない者が行うのが通常なのですが、革命期のフランスや日本の附家老・目付は堂々と表に出ています。

ただフランスの地方総督の場合は、監視する対象がその地方の住民全体であり、附大名のように個人を監視するのとは違っています。

革命時代のフランスでは、パリの政府はまだ保守的だった地方を十分に革命的にするために、フーシェたち国会議員を地方総督に任命しそこの住民を監視させました。

これと同じことが、共産党が天下をとったロシアで起きました。

また支那の共産党もそれをまねして同じ事をしています。

共産ロシアや支那の政治体制というのは一般の国と違います。

普通の国では大統領・首相・議会といった国家の正式の機関が権限を持っています。

その首相がたまたま特定の政党に属していても、政党が国の政治を行うわけではありません。

その政党の主張は首相や国会議員という個人を通して実現されるだけです。

ところがロシアや支那では、共産党の党首が国の首相に命令をすることが出来たのです。

ロシア・支那の指導者として書記長というのと首相というのが良く新聞に出ていましたが、書記長というのが共産党の党首で、首相というのは国家の公式のボスです。

そして書記長の方が首相より権限が強かったのです。

これは共産主義という思想が国家とその国民を指導するべきだという考え方に基づきます。

この書記長と首相との関係は、国家レベルだけでなく、あらゆる階層にありました。

地方政府の首相という公式の役職に対しては地方政府の書記長というものがいました。

軍隊には司令官がいますが、それに対応してその軍の政治委員という者がいます。

司令官が共産主義に忠実か否か、その行動が共産主義の考え方に合致しているか絶えずチェックしていたのです。

これはまさに日本の附家老や目付と同じです。

共産主義国の政治委員やフランス革命時の地方総督はその監督する集団の思想を監視するもので、日本の附家老や目付と同じ性質のものだという話を前回致しました。

そしてこれらの国に共通するのは、その政権の思想的基盤が固まっておらず弱い状態にあるということです。

フーシェがフランスの地方総督になって革命思想を徹底するために二千人を死刑にしたのは、1789年に革命が起こってから三年後でした。

三年前まではルイ王朝の国王はカトリックの信仰に支えられ、神がその存在を正統化したものでした。

国王は至尊で神聖なものだったのです。

ルソーやヴォルテールによって革命思想がフランスに広まりましたが、主としてパリで唱えられ、田舎は保守的なままだったのです。

そこでパリの革命政府は首都の急進的な思想を全国に徹底しようとしてフーシェなどを地方に派遣したわけです。

フランス全体としては革命思想が普及しておらず、政府の思想的基盤が弱かったからかような目付を全国に派遣したわけです。

共産主義国家が政治委員制度を採用し、国家の様々な組織の思想傾向を監視しました。

これは共産党の指導者たちが自分たちの思想に自信がなく、うしろめたく感じていたからです。

共産主義を集大成していわば教祖になったのはマルクス(1818~1883)ですが、彼は当時の最先進国であったイギリスで資本主義を研究しました。

有名な資本論は1881年にロンドンで書かれたのです。

資本主義が発達すると、資本が集中し重要な産業が唯一つの企業に独占されると彼は考えました。

例えば、鉄鋼は新日鉄、自動車はトヨタ、証券業は野村證券、銀行は三菱というようにその分野の最強の企業の独占状態になり、ライバル企業は競争に負け合併されたりして消えていくというわけです。

その結果、国家は少数の巨大企業に支配され、それらの巨大企業はごく一握りの金持ちが株主として支配することになります。

一握りの家族が国家を支配することになるわけです。

そのときに無数の労働者が立ち上がって共産主義革命を起こし、一握りの資本家を追放して企業を国有にするとマルクスは考えたのです。

つまりマルクスは、高度に資本主義が発達して産業が独占状態になった最先進国で共産主義革命が起きると考えたのです。

少数の資本家は無数の労働者には数では対抗できないから、革命は可能だというわけです。

ところが皆さんもご存知のように共産主義革命は、ロシアと支那で起きましたがここは資本主義などほとんど無い後進国です。

マルクスが考えてもいない状態で共産主義革命と称するものが起きたのです。

資本主義の先進国であるイギリスで共産主義革命が起きず、まともな産業など無かったロシアと支那で起きたわけですから、共産主義革命は先進国で起きるというマルクスの予言は外れたわけです。

当時のロシアと支那の政府は恐ろしく無能で腐敗していたのです。

ロシアはキリスト教の国ですが、カトリックやそこから生まれたプロテスタントを信奉する西ヨーロッパと違い、ギリシャ正教を奉じています。

カトリックは伝統的に世俗の君主と対抗していました。

16世紀に宗教改革が起き、カトリック側も大いに反省し非常に真面目になりました。

またプロテスタントはキリスト教の信仰を政府が守るべきだという思想です。

16世紀以後、西ヨーロッパは中世よりも宗教的になったのです。

ルネッサンスによって人間は神から開放されたなどと考えるのは、事実の一面しか見ていません。

カトリックもプロテスタントも教会と君主は緊張関係にあったのです。

一方、ギリシャ正教では世俗の君主たるロシア皇帝は、ギリシャ正教の最高責任者でもあります。

ですから政府の反キリスト教政策に対して監視する組織がないのです。

ロシアが伝統的に専制体制だったというのはこういう背景もあるのです。

政府に対する監視勢力がなければ、その国はどんどん奇怪になり腐敗するしかありません。

20世紀になり無能も極まった時に、世界最強と考えられていたロシア軍が極東の新興勢力である日本に負けました。

そして第一次世界大戦でもロシア軍はドイツ軍に負け続け、その無能振りが次第に国民の目に明らかになって行きました。

その象徴が怪僧ラスプーチンです。

こうしてロシアの国民は皇帝を見限っていったのです。

支那の場合は清王朝が潰れてからすぐ共産党の政府が出来たわけではありません。

1911年(明治44年)に辛亥革命が起き、清王朝が潰れました。

その後は、清末に出来た各地の軍閥の混戦状態だったのいうのが実体です。

これらの軍閥は表面上は孫文の国民党を看板として中華民国なるものを作りましたが、田舎では昔ながらの軍閥が支配していたのです。

1912年1月に孫文が南京で中華民国の総統に就任しました。

しかし、当時最大の軍閥だった袁世凱(清末の大政治家で軍閥だった李鴻章の子分)が、孫文などというチンピラの風下に立つのを納得しませんでした。

そこで翌月には孫文は総統を降り、袁世凱が北京で総統になってやっと納まりました。

袁世凱は支那では昔からいた英雄豪傑の類で、共和主義とかヨーロッパ流の近代思想とは無縁のオッサンで自分が支那の皇帝になることだけを考えていました。

こんなオヤジが頑張っているので支那が治まるわけが無く、各地の軍閥が皇帝の座を目指して互いに戦っていたわけです。

当時の主な軍閥としては、張作霖・袁世凱・段棋瑞などがおり、孫文も広東の軍閥の一つだというのが正直なところです。

孫文の地盤を継いだのが蒋介石で彼も軍閥だと理解すべきです。

後に蒋介石が南支那の広東から軍を率いて北方の軍閥を破りましたが、これを北伐と称しています。

これで蒋介石軍閥の優位が確定したのですが、ここでもう一つ新しい軍閥が誕生しました。

これが福建省の山奥に毛沢東が作った軍隊です。

支那の共産党は陳独秀という洋行帰りのインテリが作ったものですが、当時の支那の実態を考えずに行動したため殆ど壊滅状態になります。

それを立て直したのが毛沢東ですが、彼も昔ながらの英雄豪傑の一人と言うのが実態です。

彼は「水滸伝」を愛読していましたが、これは王朝末に興った英雄豪傑の物語です。

毛沢東が実施した戦略は、昔の王朝創設者が採ったものと全く同じです。

支那の王朝末期の内乱には、一つのパターンがあります。

道教系統の秘密結社が反乱を起こすのです。

支那の宗教というと普通は儒教を思い浮かべますが、それを奉じているのは皇帝や高級官僚などほんの一握りの支配者だけで、圧倒的大多数の庶民は道教です。

道教というのは1800年前の後漢末の動乱期に起こった五斗米道を起源としていますが、完全な現世利益の宗教です。

仏教やキリスト教のような宇宙や神と人との和合という精神的な響きはありません。

支那の王朝は庶民にとって頼りになりませんから、皆道教系統の秘密結社に保護を求めるのです。

一定の儀式を経て入会するわけですが、その結社の内規は凡そ下記のようなものです。

1、相互に助け合う

2、仲間を殺したり財産を奪ってはならない

3、仲間の子女を犯してはならない

この規則を裏返すと、仲間以外は殺しても強姦しても良いということになります。

人類全体の福祉とか正義とかいう発想はなく、仲間内の相互扶助を目的としているのです。

この類の秘密結社は今でも支那に健在で、その内のタチの悪いのが犯罪組織で、アメリカ・ヨーロッパや日本にも入り込んでます。

王朝末期に社会が不安定になると、道教系の秘密結社は急速に勢力を拡張し、やがて反乱をおこすのです。

そしてその反乱軍のトーナメントで勝ち残ったのが新しい王朝を開くのです。

14世紀の元末にも各地で反乱が起きましたが、その中から明王朝が生まれます。

明を興したのは朱元璋ですが、彼は貧農出身で内乱により家族が餓死してしまい、白蓮教という道教の一派に入信しました。

白蓮教は字の如く表面上は仏教のような顔をしていますが、実質は現世利益の道教そのものです。

この白蓮教が紅巾軍という軍事組織を作り反乱を起こします。

朱元璋はこの紅巾軍のボスになりついに皇帝にまで成り上がります。

朱元璋は白蓮教の軍事組織である紅巾軍のボスになり、他の群雄を次々と打ち破ることによって、皇帝になるという目標が現実的になってきました。

そのときになって、彼は儒者を顧問にして自分は儒教式の聖人であることを積極的に天下に宣伝し始めました。

そしてそのときから白蓮教に関係のあることを隠すようになり、最後には白蓮教の教祖を殺して、それとの関係を絶ちました。

道教系の秘密結社は、前にも書きましたように仲間内のことしか考えない狭い運命共同体なのです。

内乱で全国を転戦する際にも、他人に対する配慮がありませんから略奪・暴行・殺人はあたりまえなのです。

食糧が不足すれば平気で人を殺して食べてしまいます。

支那の内乱時は、人口が信じられないほど減少します。

内乱前の三分の一ぐらいになってしまい、極端な場合は十分の一になっています。

道教では広大な版図に様々な利害関係が錯綜している大帝国を統一できません。

儒教は官僚組織を動かすノウハウを持っています。

四書五経などの聖典に書かれた漢字によって、様々な言葉を持つ地方とコミュニケーションがとれます。

更には皇帝は道徳的であるべしとして、皇帝に一定の義務を課しています。

広大な支那を統一するには儒教を採用するしか方法がなかったのです。

このように支那で内乱を起こすのは道教系の秘密結社です。

辛亥革命後の軍閥も同じで、蒋介石の国民党軍も毛沢東の共産軍も例外ではありません。

共産軍のボスには道教系の幹部がおおぜいいます。

第二次世界大戦で日本が負けて支那からいなくなった後、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産軍は内戦を再開しました。

このとき、アメリカだけでなくソ連も蒋介石の国民党に武器や金を支援していました。

ソ連が国民党から共産党に乗り換えて支那共産党が正式の政府だと認定したのは、蒋介石が台湾に追い出された後でした。

この事実は、共産主義を表看板にするソ連も、支那共産党の実態を把握しており本質は軍閥だと理解していた証拠です。

台湾に逃げ込んだ国民党軍は、そこで大規模な略奪を敢行しました。

正確な数字は忘れてしまいましたが、当時の台湾人の数万人か数十万人が国民党軍の略奪で死んでします。

当時の台湾の人口は一千万ほどですから、数万人の死者としても大変な比率です。

当時の台湾人は「犬が去って豚が来た」と表現しました。

日本人は台湾を外部から守ってくれたが、国民党は貪欲に略奪したという意味です。

今の台湾が非常に親日的なのはこういう理由です。

このように国民党も共産党も軍閥だったのです。

ロシアでは政府の無能のために革命が起きました。

支那では王朝末期の群雄(軍閥)割拠のなかから最終的に毛沢東の軍閥が勝ち抜いて政権をとりました。

そして彼は儒教を表看板にするというやり方を採用せず、流行の共産主義を標榜しました。

マルクスの予言は外れて、資本主義の最先進国で共産主義革命は起きませんでした。

それはマルクスの資本主義社会に対する理解が誤っていたからです。

彼は資本主義社会というものを、利潤追求を最優先にする過酷な社会で、少数の資本家と大多数の労働者に分裂した国民が敵対している社会だと理解しました。

そしてこういう不平等な社会を精神的に支えているのが宗教であり、「宗教はアヘンだ」と考えたわけです。

そして労働者は圧倒的な数で革命を遂行すると思ったのです。

しかし資本主義の社会は、マルクスが考えているよりはるかに柔軟な社会でした。

イギリスの哲学者は「二十歳で共産主義者にならない者は馬鹿だが、中年になって共産主義者のままでいる者はもっと馬鹿だ」と云いました。

生まれや財産による差別が無い社会を目指すというのは崇高なことで、優秀な若者ならそう考えて当然です。

しかし中年になって社会や人間に対する理解が深まると、共産主義の主張は現実をしっかり見ておらず偏見の上に成り立っているということが分ってきます。

これを「中年になって共産主義のままでいるのはもっと馬鹿だ」と表現したのでしょう。

確かに産業革命期には、過酷な労働をしなければならない労働者がいました。

12歳の少年が腰に縄を巻いて四つんばいになってトロッコを引っ張り、石炭を坑道から運び出すということがありました。

この絵はアメリカや日本の歴史の教科書に載っているので覚えている方も多いと思います。

これはイギリスの新聞に載った挿絵です。

これらの新聞の記事により、イギリスでは過酷な労働が大きな社会問題になってきました。

「このような不正は、神も容認されない」と考えたイギリス人も多かったのです。

資本主義自体がキリスト教の信仰から起こったことを思い出してください。

そしてこのような過酷な労働を無くそうという風潮が社会で盛り上がって来ました。

労働時間や深夜労働の制限、安全面の配慮などの社会政策がなされるようになったのです。

19世紀後半からものすごい勢いで資本主義化したドイツが、特に国家による労働者の保護に熱心で、当時の「労働法」などが日本にも入って現在の社会政策の基になっています。

このようにキリスト教の信仰の面と当時勢力を増しつつあった共産主義に対抗するという実利的な面の両方から、労働者の保護が行われ社会は安定しました。

マルクスは資本家と労働者が激しく対立すると考えましたが、この考えも現実に合いません。

英語に Masterpiece という言葉があります。

傑作とか絶品という意味です。

ヨーロッパでは、熟練した技を持ち後進を指導できるだけの人格をもった親方を、マスターとかマイスター(ドイツ語)と言います。

職人の組合(ギルド)が試験を実施し、その試験に合格したものにマスターの資格を与えます。

受験者は試験管に自分の作った作品を提出するのですが、皆試験に受かろうと一所懸命に作品を作ります。

だから試験に合格したときの作品はその親方の一世一代の傑作であることが多いのです。

そこから Masterpiece が傑作と言う意味を持つようになったのです。

このようにマスターの資格は、その道のプロ仲間が認定したもので自分勝手に称することができません。

マスターの資格は社会的に非常に権威のあるもので、収入も多く決して彼らは下層階級ではありません。

私が以前訪れたドイツの企業では、現場の責任者であるマイスターの方が製造課長より給与が高いと言っていました。

このように権威のあるマスターの発言は経営者も社会の指導者も無視できません。

このマスターが現場の労働者のボスですから、労働者が窮地の陥ればマスターはしかるべき要求を経営者にし、ある程度は受け入れられます。

このように資本家と労働者は、対立するだけでは無かったのです。

ヨーロッパだけでなく、日本でも労働者の状況が客観的に伝えられているとは思いません。

「女工哀史」は非常に有名な物語ですが、これと正反対の記録もあるのです。

飛騨の12歳の少女たちが野麦峠を越えて製糸工場に働きに行き、悲惨な目に遭うというのが「女工哀史」ですが、この本に疑問を持った人が追跡調査をしたのです。

その結果分かってきたのは「熟練少女労働者天国」とでもいうべき実態でした。

戦前の繊維産業と言うのは、今の自動車産業に匹敵するような日本の基幹産業でそこで働いていた少女の数も非常の多かったのです。

そして非常に器用で技能の高い少女は不可欠な存在で、会社も高給を払い優遇し、また熟練少女のスカウト合戦をしていました。

当時は、盆暮れに少女達を実家に帰す習慣がありましたが、他社の採用担当はこのときを狙ってスカウトをしたのです。

そこで会社は帰郷している少女たちに採用担当を同行させ、今日はお芝居、明日はお寺参りに連れて行き、他社のスカウトが付け入る隙を作らなかったのです。

こういう世界が現実にあったのです。

そして少女の仲間が会社で地獄のような目にあったらそれを故郷で話すでしょうし、そうなれば誰もその地獄会社で働かなくなります。

このように「女工哀史」の世界はごく一部の例外的な事件だったのではないかと私は疑っています。

前回は「女工哀史」が全体としてウソではないかということを書いて少し脱線してしまいましたが、今日も少し脱線しようと思います。

「女工哀史」もそうですが、ことさらに現実を悲惨に描いて喜んでいる人が多くいます。

以前から書きたいと思っていたのですが、「従軍慰安婦」問題もこの類です。

日本軍が日本人や朝鮮人の若い女を強制的に慰安所で働かせたという件です。

この件を少し調べてみたのですが、この慰安所というのは軍という政府機関が関与していたので、役所仕事なのです。

つまり、労働に対してはチャンと対価を払っています。

私設の遊郭のようにやくざが絡んで中間搾取をするということがないのです。

その結果、慰安婦が軍からもらう給与がなんと陸軍中将よりも多かったというのです。

現在の一部上場企業の社長の年収は4000万円程度ですが、これよりも稼いでいる娼婦はたくさんいます。

それと同じ現象だったのです。

従って従軍慰安婦になりたい希望者は多く、嫌がる女に強制する必要は全くありませんでした。

嫌がる若い女を強制的に慰安婦にするなどということは、暴政の最たるものでよほどの必要が無ければやりません。

この事実から「従軍慰安婦」問題がデッチアゲだということは明らかです。

またこんな基本的なことも検証しないで一緒に騒いでいるマスコミというものは、日本の癌だと私は素直に思いました。

もうひとつ余談かもしれませんが、労働組合のことも書こうと思います。

日本の労働組合というのは他に類を見ない特殊なものだと言うことです。

アメリカやヨーロッパの労働組合は産業別ですが、日本は企業別なのです。

アメリカにUAW(全米自動車労働組合)というのがありますが、アメリカの自動車産業で働く労働者はGMで働く者・フォードで働く者・アメリカトヨタで働く者も皆ここに所属しています。

ヨーロッパでも事情は同じで、ベンツ社もフォルクスワーゲン社も労働者が必要になったときは、ドイツの自動車労働組合に求人します。

そこで労働組合が労働者の推薦リストを自動車会社に提出します。

ドイツの自動車労働組合と自動車会社は契約を結んでいて、その組合員以外の者は雇わないことになっています。

組合は職業訓練学校を持っており、その産業に必要な熟練労働者を育て、会社に対してはその能力を保証しています。

おかしな者をマイスターにすれば、会社からクレームが来ますからその資格技能を厳密に審査しているのです。

ヨーロッパやアメリカの労働組合は産業別になっていますから、自動車や電機など加盟労働者の多い労働組合がいくつか歩調を揃えるとかなりの力になります。

一方、日本の労働組合の特長は、会社ごとに組合が異なる企業別だということです。

同じ製鉄という産業で働いている労働者でも、新日鉄で働いていれば新日鉄労働組合に所属し、住友金属には別に住友金属労働組合があります。

これは自動車産業や電機機械産業などあらゆる産業でも同じです。

鉄鋼労連や自動車総連などというものがありますが、これらは企業ごとの労働組合は集まって作った事務局のようなものでそれ自体には力がありません。

企業ごとにある労働組合は、会社と契約を結びその組合員しか雇わないことにしています。

従って、学校を卒業して企業に入った新入社員は有無を言わせずに労働組合に入らされます。

大学を卒業して将来はこの会社の経営者になるのだという夢を持っている若者が、いきなり「お前は労働者だ」と宣言されるわけです。そして毎月の安い給料から高額の組合費を天引きされるのです。

私の友人にもこれには驚いた者が何人もいます。

ところがやがてその「労働組合」の実態が分ってきます。

なによりもこの労働組合の幹部になることが出世の早道なのです。

会社の経営者は労働組合との良好な関係を維持することに最大の努力をするからです。

一方の労働組合は会社の不利益になることは一切しません。

会社と労働組合が共に考えているのが「会社と共に良くなろう」ということです。

会社が順調に行けば労働者である自分たちも、給料が増え失業の心配が無いからです。

経営者と労働組合は対立するものではなく、事業を行う上で不可欠のパートナーなのです。

こういう関係ですから、労働組合の幹部がろくに仕事もしないで遊んでいても会社は見て見ぬふりをします。

組合の幹部が組合の仕事に専念しても、会社は従業員としてちゃんと会社の仕事をしたとみなして給与を払っているのが一般的です。

私企業だけでなく、地方自治体や教職員の組合も実態は同じです。

私企業の労働組合の幹部の素行はほとんど世間にもれませんが、教員や市役所の組合幹部の勤務時間中の遊興や組合活動はしばしばマスコミに載り皆が騒ぎます。

これはまさに「同じ釜の飯を食う仲間は一族だ」という日本の伝統的な考え方から来たものです。

会社は仕事をする組織という表の役割を担い、労働組合は「一族だ」という意識を維持し強化する役割を果たしているのです。

資本家に対抗する労働者の組織が組合だという考え方がヨーロッパから入ってきましたが、これが見事に日本式に変容しています。

民主主義や儒教と同じく、労働運動や共産主義というものも見事に本場のものとは別物になっているのです。


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